先日、何気なくテレビをつけてみると、芸能人が私服をチェックしてそれを審査員が採点するという番組がやっていました。
審査員といってもモデルやタレントで、いわゆるセンスがいいと言われている人たちです。
しばらくそれを見ていたのですが、どうも私にはどれがダサくてどれがいいものなのかの区別がなかなかつかないのです。
司会者や審査員たちはすぐに「これはいい」「これはダサい」といって現場を笑わせていました。
笑われている方は、必死になって自分のファッションをアピールしますが、ことごとくダメだしされ、それがまた笑いに変わっています。
ファッションのセンスというものはある程度個人の感覚に任せているような気がします。
流行というものがどこからくるのかは知りませんが、なんとなくある年代の大衆から、あるいは有名なファッションの祭典などから決まるものなのかなという印象です。
ファッションのトップから「今年はこれが流行り」といわれ、それに従う者が次々と現れ、そしていつの間にか大衆に知られています。そしてそれを知っている者、着こなしている者が昔でいうイケている人たちなのでしょう。
もうひとつの方は、特に若い世代からの発信が多いように見られます。ファッションもそうですが、食べ物、行動などで若者のあいだで流行るとたちまちブームになるのです。
若い世代で流行するとなぜこれほどまでに世間に広まるのでしょうか。ひとつに若いということにエネルギーが備わっているからでしょう。彼ら、彼女らの消費エネルギーはたくましいです。
なぜならば、そこには生活がかかっていません。彼らには自分のためだけに使えるお金の額が大きいのです。
それを考えると、いくら少子化といっても企業やメディアがそれを放っておくわけがありません。彼らはお金になるのですから。
そういうわけで、彼ら向けの商品や彼らが飛びつきそうなものにはいち早くメディアや企業が飛びつくのです。
またSNSを使いこなしている世代というのも大きいかもしれません。
そうしてたちまち流行りものが世間に知られるようになり、すぐにひとつの流行となります。
しかしこの流行りに乗れないものも中にはいるはずです。そうした人々はたちまち「ダサい」というレッテルを貼られてしまいます。
初めにも話した通り、ファッションの善し悪しというのは個人の感覚に近いものを感じます。
流行りのメディアに触れていないと分からないからです。
敏感に若者やファッション雑誌など、もしくは道行く人の格好を観察しているような人でないと気がつけません。
いや、それだけではなく、そういった「イケてる」嗅覚を兼ね備えた人物でないとおしゃれにはなれないのです。
その嗅覚というのは、新しいものが出てきたときに「これはかわいい」と瞬時に判断できることです。
そしてそれが本当に「イケている」かどうかは、大衆の、あるいはメディアに取り上げられるまでは分からないのです。
嗅覚を兼ね備えている人は、幼い頃からそれを育てるように訓練しています。これは意識的にでも、無意識的にもです。
特に女の子に多いような気がします。彼女らは、物心つくかつかないかぐらいの時からかわいいものに敏感です。
小学校に上がれば集団で行動しますから、なおさら敏感になっていきます。
男子がまだ虫取りやゲームなどに夢中になっている頃、彼女たちは着々と自分のセンスを磨いていきます。
これがいい、これはダサい、これはまあまあ、などと女子どうしで服や持ち物の褒めあいやチェックがあります。
流行りは世間よりも早く、先月かわいいと言っていたものが今月になるともう見向きもされなくなることなどしょっちゅうです。
これは若い頃にはありがちなのかもしれません。
すると、なんとなくあの子はおしゃれだという空気が集団の中から出てきます。
ここで敗北する女子、もしくは自分にはよく分からないという女子がこのおしゃれ戦争から離脱するのです。
離脱した女子は、そのままセンスを磨くことをせず、むしろ「自分には分からないから」とあえて避けて通ろうとします。
変なプライドもあるかもしれません。自分のセンスの自信がないのです。
もちろん私はそういったセンスがあるとは言えない方です。
自信もありません。できることなら、全世界の人間が白のシャツと黒のジーンズで過ごすことにならないだろうかいつも夢見ています。
自信もないので人のファッションになんてとてもじゃないが口出しできません。
テレビの審査員たちもそうですが、人の服装にあれこれ口が出せる人が本当にすごいと思います。よほど自分のセンスに自信がなければできないことでしょう。
しかし、やはり個人の感覚もあるのだなと思ったのは、どれほど流行に敏感な人たちでも「好み」というものがあるからです。
テレビの審査員たちも「ダサい」と呼ばれている人たちを並べて、どれがいいかと聞かれると、意見が割れたのです。
やはり人の感覚に頼るものほど、まともに見てはいけないなと思ったのでした。